2011年6月12日日曜日

藤本賢一氏 レポート② 『重力ピエロ』

今回、PREMIXで3日間台詞、2日間効果音、1日プレビュー、そしてDBというやり方をした。監督とプロデューサーから「零号の後直しができないから 1回通して観るのをDB前に1度やりたい」との事だったのですが、「DB終わった後に通しで観た方がいいのでは」と言ったのですが、「ロール毎のDBをする前に通しで観て備えたいし 終わった後も観たい」と言う事でした。これは意外に他の仕上げメンバーにも良いという声があり、特に効果音の岡瀬君は後の伏線を含んでの音付けが、後を聞かずに前のロールで拒否される時なんかもあるからこのやり方の方が良いと思うと言っていた。

となると、プレビューにテンパってたのは僕だけで、音楽なんてほとんど頭に入ってないから、バランスをとるのに必死で、今振り返ってみるとこの日がDBよりも疲れた・・・。




技師になって仕上げをする時にいつも右に座ってくれるのは効果の岡瀬君で今回も絶大なる安心感でした。台本を読んだイメージや画の感じで思う存分の効果音をつけたかっただろうと思うのに今回もSyncroに合わせた音づけは凄みすらあった。今頃は地道に生音合わせをしたり、Syncroのキャラクターにあった音選びをしていると思うと、自分もやんなきゃと何度も思ってきた。
そして左には日活スタジオの大野君と山口君、ただのオペレーターではなく 内容にかんでくるし、あそこはあれでいいかと指摘してくれ助けてくれるのでとても心強かった。

奥には音楽プロデューサーの安井さんと選曲の佐藤さん。監督からの信頼は厚く、ほとんどお任せだった。
そして後ろには助手の反町君、現場からずっと一緒だ。DB時に自分の思い入れのあるシーンの音楽のIN点では、熱く監督に自分の見解を言っていた。スタッフは台本を受け取って読んだ時点から、この映画は俺の映画だと思っている、それは助手だってそうだ。僕は仕上げの場で『映画は総合芸術』の体現が一杯ある。スタジオワークにはどうしたって現場ミキサーは不利だ、現場にでていると圧倒的にスタジオで音を聞く回数が劣る。

でも、仕上げの場で皆が後押ししてくれるのはなぜか?

その作品に関わってる時間が長く、現場からの思いに敬意を払ってくれるからだ。そこでの僕の武器は技術ではなく思いしかない。
DB
ではかなりの確率で僕の仕込んだ音が監督の選択からはずれた。
Rush
では無い音やEFECTなどを自分なりに仕込んで聞かせる、考えを話す、その上での拒否は、なぜかそんなにストレスにならない。こちらのアプローチに対してのリアクションということと、聞かせて駄目、言って駄目だともうこれはどうしようもない、好みと生理が違うのだ。だとすると監督の好みと生理に合わせるしかないという気持ちと、自分は自分なりに考えて一度は聞かせてみたんだからと納得して次に進める。


DBは最終日に通しで観て、何カ所かを修正して終わった。映画は環境VS遺伝子という話で明確な答をだしている。いい映画だ。


この作品の仕上げ期間中にオリンピックが始まり終わり、夏も終わってしまった。今は零号までの余韻にひたっています。公開は2009年です。

雨の日以外は谷保〜日活を走り続けた自転車と100均サンダル。

藤本賢一氏 レポート①『重力ピエロ』

藤本賢一氏の現場から

撮影ははるか前に終わっているので、まさに2日前にマスタリングが終了した仕上げ現場の事を書いてみようとおもいます。
7月から日活のDSE-2で整音を始めました。9月下旬のダビングでこの時期からの仕込み態勢は恵まれた作品だと思いますが、前作からプロデューサーに訴えつづけた「Film All RushからPREMIXまで1ヶ月は下さい」が具現化されたのと、監督が望んだ編集期間や音楽合わせ期間を了承してくれたからでした。しかし、今回は7巻の各ロール整音に4日はかかってしまい、ARが日にちとびとびに4日あり、その素材選択や合わせ、なじませを含めるとARだけで6日はかかっていて、編集直しなども時間はとられるので、結局、生ARの収録は助手の反町君にやってもらい、音楽録りやトラックダウンには立ち会えず、 PREMIXで全貌を知るという結果になってしまいました。

1ロールの整音に4日ってなにしてんの?と思われるかもしれませんが、特別な事をしてるわけでなく、カットごとのノイズつなぎや、台詞のキャラクター・レベル設定、各ロールに絶対にある滑舌の悪い台詞の別テイク・テスト探しはめかえ、これまた絶対にあるキッカケの声、カメラノイズ、移動車ノイズ、ライトノイズ、不必要な音のはめかえ作業、リップノイズ抜きなどをやっていくと、1ロール20分弱が一向に進まない、これらの事をやった後の音のことをいろいろ考え巡らしたいのに、目の前のそれらの事に消耗が激しい。

PC作業にかかせない、麦茶とアイボンと肌水と冷えピタ。そしてコマンド作業で痛くなってくる手首用のアンメルツ

PC作業にかかせない、麦茶とアイボンと肌水と冷えピタ。そしてコマンド作業で痛くなってくる手首用のアンメルツ』
これらを支えに地道な作業を続ける。やらないと良くならないのにうまいことやったらやったで気にならなくなり気づかれない作業。

 どの撮影でも現場の音環境で毎回苦労するが、そうそう撮影に都合の良い場所があるわけではないから覚悟しているものの、今回ほどノイズリダクションに時間がかかった作品はなかったです。メインの家のロケ部分を海沿いの丘の上の別荘をお借りしたのですが、マイクを通してここは海の音が波の音に聞こえなく、動きのあるゴー音として聞こえ、部屋の中の一部を仙台港の大倉庫の中にSETを建てて撮影したのですが、港に大型客船や貨物船が停泊している間はずーっと唸り続けているし、倉庫なので周りの作業音、雨が降ればゴー音、風が吹けば屋根やシャッターがガシャンガシャンなる始末でした。

画はのどかな潮騒が聞こえてくるような感じで撮影されているので、現場では延べ80シーンのARをする気でいました。ところがそれは、あれだけ現場でうるさいと言ってただろうといっても、画に合ってないだろうと言っても認められない、台詞が聞こえてるからだ。「映画はALL SYNCROの上ALL ARをしていいとこどり」をするべきだと思う。でも現実的ではない、まず監督と俳優がARを嫌がる、そしてプロデューサーも現場の音で成立するならばその方がいいと思っている。

僕だって現場で助手が必死に送ってくれた音の方がいいにきまってる。だいたい20年以上録音に携わっていて、自分の関わった作品でSyncroを上回った ARなんて経験したことがない。一言二言や息づかい、物理的に収録できない場面は別にして、現場の不要な音の為に芝居場面をARして良かった台詞なんて一度も経験したことがない。したがって 少しでも条件のいい音にしていく作業とARとの並列に長時間のPC前の為の最善のイス。

少しでも条件のいい音にしていく作業とARとの並列に長時間のPC前の為の最善のイス





















藤本賢一氏


志満順一氏 「眉山」② 2006年9月7日

志満順一氏の現場から

毎日おどりが終わりベースに帰ってその日の作業のバックアップ、シートの整理、機材の整備などをやっていると日付が変わっていました。嵐のような4日が終わり、応援スタッフも帰った16日から5日にわたり、南内町演舞場を舞台に映画のクライマックスシーンの撮影が始まりました。

この間は「連」のおどりは全て今までに収録した音に依るプレイバック撮影です。PBに関しては、応援スタッフの一人の前田君に担当してもらいました、日中、30度を超す炎天下の元で俳優を入れての綿密なリハーサルを何度も繰り返し、夜の本番に備えます。録音部もPB撮影のための準備、音の出し位置等を演出部と打ち合わせ、スピーカーの設置、ケーブルの配線、(広い演舞場をカバーするのは大変で時間が一番掛かる作業になりました。) 







夕方からエキストラの方々が助監督、制作部の指示に従い整然と入場してきます、観客役のエキストラの数は毎日役2,500名に及びます。これらのエキストラを初め、会場の警備、整理係り、果てはコーヒーのケイタリングに至るまで全て「眉山を応援する会」を中心とする支援団体の呼びかけに応じられた徳島県民の方々です。


午後7時に、俳優を入れ、「連」のおどりを込みでのリハーサル~本番の撮影となります、「連」の皆さんも本番4日間の疲れも見せず、すばらしいおどりを披露してくれます。観客の皆さんもエキストラで有ることを忘れてしばし阿波おどりを堪能しています。が、録音部はあらかじめ会場を取り仕切る助監督のマイクを通じてあらかじめこの撮影では指示に従いパントマイム、おどりの方々も声は出さずに盛り上がる芝居をしてくださいとかなり無理なお願いをしています。エキストラの人たちの感じが良くなった頃合いで今度はPBのお囃子にのって「連」の方が踊り込んできます、もちろん声は出さず、身振り手振りだけ、会場を彼らたてる足音と低く抑えたお囃子の音と観客役の人たちの手拍子のまねのみがひっそり?と続くなかで俳優のせりふです、緊張の一瞬でしたがうまく収録出来ました。



皆さんに助監督(兼重君という2ヶ月も前から準備で徳島にきていて、すっかり徳島市民におなじみになった)の絶妙のマイクパフォーマンスのおかげで指示が行き届いていて、この後のPB同禄もうまくいきました。阿波おどり本番に続き6日間(一日の雨天中止と突然の大雨による中断が有った。)の怒濤のような日々が終わり、現在は徳島市内の各所での撮影が続いています。9月末には帰京の予定です。
筆者 志満順一氏


志満順一氏 「眉山」 ① 2006年9月7日

志満順一氏の現場から

このレポートは、さだまさし氏原作の小説を元に制作された映画「眉山」の徳島ロケのレポートです。
「眉山」は監督犬童一心、主な主演者に松島菜々子さん、大沢たかおさん、宮本信子さんらで8月12日の徳島阿波踊りの撮影からスタートしました。

8月12日から4日間催された 徳島阿波おどりの撮影はカメラ5台を使用して行われた、録音部も正規メンバー4人に加え応援スタッフを4人投入しての大規模な撮影になりました。メンバーは私、志満順一、チーフ 大竹君、セカンド 冨田君、サード鈴木君、応援に弦巻氏、岡瀬君、小黒君、PB担当もかねて前田君。
後で9月からサード鈴木君と交代で京都から藤井君に来てもらいました。 






セカンド・冨田君



使用機材は以下の通りです。
録音機は、 メインにMパワード1814。サブ機にサウンドデバイス744T。阿波踊り期間の別班用にクデルスキー社製ARES-BBプラスを1台報映産業松田氏の御好意でお借りした。その他に、ローランド社製R4を2台、フォステックス社製PD-4を2台。6班体 制で対応した。マイクも通常の体制は、ゼンハイザー60P2本、ノイマン1503本、ワイヤレスがゼンハイザークァッドパック1セットプラス、ラムサを2台の計6波を使用している。

特集:My Sound Cartにも記事を掲載中

この作品ではクライマックスシーンは阿波おどりの夜であり、撮影初めからいきなり山場のシーンの連続で息つく間も無い忙しさでした。阿波おどりは4日間にわたって催されるのですが、その間は舞台となる南内町演舞場にカメラ2台、街のドキュメンタリー用にカメラが3台出ていました。

演舞場とは、徳島市内に数カ所ある阿波おどり鑑賞用の特設ステージで、南内町演舞場では「眉山」に協力して出演してくださる「連」(阿波おどりのグループのことで、「連」毎に踊り、お囃子に特徴がある)のお囃子、おどりのかけ声を録音しなければならず、その間に別班は市内各所で、おどり(演舞場以外で「連」のおどりや「にわか連」と呼ばれる観光客や一般市民による)がそれこそ街の至る所で行われており、まさに阿波おどりの4日間は徳島の街はおどり一色の状態でした。
応援・小黒君

筆者 志満順一氏
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2011年4月10日日曜日

紅谷愃一氏 「蒼き狼 地果て海尽きるまで」  2006年6月

角川春樹事務所制作、松竹配給のこの『蒼き狼 地果て海尽きるまで』は、海外での大がかりな合戦シーンを含め全体のスケジュール問題もあって当初からB班監督が起用され、少数編成ではあるが別班スタッフが組まれた。

録音部A班は小生と助手3名、B班は技師1名助手1名の2名、計6名の編成である。

録音機材はロケハンの結果をふまえ、ラフロード・砂塵を考慮してアナログとデジタルの混成にした。ポータブル調整卓はCooper Sound CS106 MIXER、予備にAudio Deveropments AD145 MIXER
レコーダーはNAGRA IV-Sを主体にSound Devices 744T HD RecorderFOSTEX PD-4 DAT RecorderRoland R-4 HD Recorder等。

マイクはSENNHEISER MKH-416P48 Gun MicMKH-816P48 Gun Micを主体に、RAMSA Wireless Mic6波。カートにMagliner Sound Cart

その他大量のマイクケーブルを含め、予算を担当するプロデューサーが頭を抱える程の大荷物である。カメラは香港、照明機材は北京、録音機材は東京と輸送ルートはそれぞれ異なるが、結果的にやはり東京から直の方が問題は少なかったようである。 



筆者:紅谷愃一氏




当地ウランバートルに来て早や4週間が過ぎようとしている。その間、長年仕事でご一緒した今村監督の訃報が入り、東京を発つ時すでに覚悟はしていたが、やはり大きなショックであった。心からご冥福をお祈り致します。

ここモンゴルも異常気象で6月に入っても気温の上昇が鈍く、その為家畜の餌になっている牧草の育ちが悪く、この映画の準主役である馬の調教がかなり遅れていた。

我々が宿泊するFLOWER HOTELは日系人の経営で、フロントも比較的日本語が通じるので有難い。そしてこのホテルには一応中華料理、和食、洋食風の三軒の店があるので何とか凌げそうであるが、ただし和食は東京並みの値段である。車を使えば韓国焼肉、日本食、ロシア料理店などがあるが、仕事が終わって外に食べに出るのもおっくうである。有名なアイラグ(馬乳酒)は幸い?まだ飲む機会に恵まれないが、やはりモンゴルウォッカを飲む機会が多い。街を歩けばロシア語、ハングル文字の看板が目につく。やはりロシアの影響を受けているのを感じる。スリ被害の話をよく耳にするが、特に人混みの多いところは要注意とのことである。日本から持って来た多くの半袖シャツは、思いのほかの寒さで未だ役に立っていない状態で、本当に暑い夏が来るのか心配である。

 

当初クランクインは6月2日に設定されていたが、諸般の事情により6月4日に変更された。当日、日本・モンゴル合せて100人以上のスタッフが、先発隊は午前6時、本隊は8時にそれぞれ宿泊先のホテルを出発した。

ウランバートル市内から東へ車で1時間半程の道程である。国道を外れると砂地のデコボコ道が続く、砂煙を上げて車がガタガタ音をたて軋みながら走る。

撮影初日は誰しも緊張するものであるが、今回は特にモンゴル人スタッフと現地エキストラとの言葉の壁を突破しなければならない。モンゴル語の発音はとても難しい。この映画は日蒙合作ではあるが、セリフは勿論日本語である。

ロケ現場にはすでに美術部が設営したゲルが建ち並び、小さな聚落(アイル)が出来上がっていた。馬30、羊150、駱駝6、それに子供を含めエキストラ60人、すでに子供たちがモンゴル語で遊び廻っていた。

撮影が始まると、当初心配していたエキストラの人声はモンゴル側助監督の協力でなんとか押さえる事ができたが、荷車を引いていた駱駝のご機嫌がこの日は悪かったのか、ラッパのような大きな鳴き声が2頁に及ぶ長セリフに容赦なく割り込んで来て、150頭の羊の鳴き声と共に初日から思わぬ苦労を強いられた。予想はしていたが、動物の扱いは今後とも頭の痛い問題である。


 

このロケ現場にも、遠く離れた小高い丘の方からカッコーの鳴き声が聞こえてきたが、モンゴルの草原にこの可愛いカッコーの鳴き声はどうしても似合わないのである。

3日目の撮影は最も心配していた強風に悩まされた。ウランバートルはすでに標高1,351mである。市内からロケ現場へ向かうには小高い山をいくつか越えなければならない。その為、すでに標高差も違うのであろう、ホテルを出発する時点では撮影現場の気温と風の状態が非常に分かりにくいのである。この日は砂塵が舞い上がり容赦なく目に砂が入る程の強風で、マイクの風防を通常より厚めにせざるを得なくなり、セリフのキャラクターに大きな影響を受けた。

この時期すでにモンゴルの陽の入りは遅い。夜の8時過ぎ迄DAYシーンが撮れる為、オーバーワークに気をつけなければならない。

現在帰国は9月10日頃の予定であるが、気の抜けない毎日であり、まだまだ何かが起こりそうである。




紅谷愃一氏